Update 2012.12.12 水 18:33
トップページ お気に入り
全記事一覧
首页 > 新聞 > コミュニティー > 人物インタビュー | People
日本人に必要とされる人間になって、差別を乗り越えようとする熱血先生!
2012.02.16 (木) 高正子 contributor@jejujapan.com

       マンナメ(出会いの)広場       
*  済州島出身、あるいはその後裔の人たちへのインタビュー

 
   
▲ (左から)毎日新聞の教育欄でも取り上げられた記事、 楽しい音楽授業       撮影:高正子


キム・テリョン(金大竜)さん、在日3世(1980年生まれ)

昨年の12月16日に、大阪市立聖和小学校のキム・テリョン(金大竜)さんの授業を参観する機会を得た。教室に入ると、子どもたちは一人一人が私の目をしっかり見て大きな声で挨拶し、自己紹介をしてくれる。授業では、子どもたちは常に大きな声で返事をし、お互いに分からないことを尋ねあい、相手の話をじっくり聞き、友だちを待ってあげるという姿勢が身体化されていた。教員になって今年で10年目になるキムさんの教育目標は、勉強を楽しみ学校が大好きな子、人が大好きな子、当たり前のことを、当たり前以上にできる子どもに育てることだという。


「おいこら朝鮮人」といわれていて、てっきり励ましの言葉だと思った。

キムさんは在日3世、ハラボジ(祖父)が元山(ウォンサン、現在の北朝鮮)から14才の時に手紙と仏像を持たされ高野山の寺へ来た。寺の人たちから「おいこら朝鮮人」と言われても、日本語ができないハラボジはてっきり励ましの言葉だと思いこんでいた。後に日本語がわかるようになって、その言葉の意味を知ったときはショックで、国の方を向いて泣いたという。しかしそんな状況にも負けず、高野山大学に進み、修行の末に大僧正の地位にまで登りつめた、とアボジ(父)がいつも話してくれた。後にハラボジは八尾で朝鮮寺をつくり、済州島の月汀里(西帰浦市)で生まれたハルモニ(祖母)と一緒に切り盛りをしていた。そのハルモニは「袋に入れられて」日本に来たと話していたが、袋にいれたのが日本人なのか朝鮮人なのかはよくわからないという。日本でハラボジと出会い結婚したハルモニは、ハラボジが倒れてから初めて夜間中学に通った。日本語や英語を学んだことを嬉しそうに語っている姿を見て、「勉強ってすごいな」と息子であるアボジは思ったそうだ。

幼い頃からアボジは無学で字も読めない母を恥ずかしいと思っていた。だから、学校から持ち帰る手紙もどうせ読めるはずもないからといつも捨てていた。「なんで僕は韓国人として生まれてきたのだろうか」と悩んだ時もあった。特に、高校受験の時には「国籍が違う」からと公立高校への併願が許されず、新設の私立高校へ入学するしかなかった。しかし、そこで民族クラブに出会い、言葉や歴史、文化などを学び本名宣言をした。卒業後は、外国で活躍したいと外国語大学に進んだ。その後、学費を稼ぐためにスクラップ集めをしているうちに、兄の仕事を手伝うようになり、それがきっかけで中華料理屋の経営を始めた。27才のときだった。


ハルモニ(祖母)が日本に来てよかったと思ってほしい。・・・だから、日本で一番の教師になろうと思った。

脳梗塞で倒れたハルモニは20年間寝たきりで、数年前に亡くなった。テリョンさんはその年の春休みに、寝たきりのハルモニが故郷の土や石を見れば喜ぶと思い、月汀里まで出向いて土や石を持ち帰った。ところが、それを見せると、ハルモニは「こんなんいらんわ」と取り付く島もなかった。そんなハルモニの人生を思うと心が傷んだが、「この人は何で日本に来たのか、このままでは不幸のままで死んでいく、どうやったら日本に来てよかったと思ってくれるだろうか。ハルモニが日本に来てよかったと思ってほしい」と切実に思った。そして、「日本社会のなかでもっと2世、3世が必要とされるようになったら、ハルモニも日本に来てよかったと思ってくれるのではないだろうか。だから、日本で一番の教師になろう」と決意した。今は、「どうでもいいのですが」と彼は照れ笑いをしながら付け加えた。


在日であることは「ハンディキャップだけど、大きなきっかけになる」

長男であるテリョンさんが生まれたときアボジは、自身ができなかったことを子どもにさせてやりたいと習い事を5つもさせた。高校生のときテリョンさんは、進路についてアボジに尋ねてみた。「どんな仕事をして欲しい」と。すると、「教師がいい」との返事だった。そこで教師になるために懸命に受験勉強を始め、その努力の甲斐あって大学に合格した。

名前については、小学校では名簿上は日本名だったが、日本人の先生から「テリョン、テリョン」と呼ばれていて、友達もそう呼んでいた。卒業証書の名もアボジと先生が相談してキム・テリョンとした。だから、就職して正式に名乗りだしたキム・テリョンという名前には違和感がなかった。

朝鮮名を名乗って働くようになってから、彼ははっきりとした差別の経験が3度あるという。一度目は新任の時、朝鮮人に教えられるのが嫌で、担任をしていた生徒が転校してしまった。二度目は、結婚しようと思っていた女性の父親がデート中に現れ、なんと土下座をして「別れてくれ」と頼まれた。三度目は、教員になって八年目に、自宅付近の駐車場を借りようとしたところ、そこの主人に「あんたの国の人には貸さへん」と言われた。この時、キムさんは「この人が死ぬまでに、自分を好きになってもらいたい」と思い、その後粘り強く関わりを持つようにしたというそして最近、その駐車場を解約することになった時には、その主人から「ありがとう」と言われた。キムさんは在日であることは「ハンディキャップだけど、大きなきっかけになる」という。「むしろ、差別感情を持っている日本人を変えることを楽しいと思っている」と。前向きに生きる彼の言葉に、私は救われたような思いがした。

キムさんの学級経営が評判になり、講演依頼が舞い込む。先日は新聞の教育欄でも取り上げられた。しかし、既に10年の教育歴を誇りながらも、彼の職責は「期限を付さない常勤講師」のままである。1970年代に大阪では教職における「国籍条項」は撤廃された。しかし、文科省は教諭は「公の意志形成」に参画するから、日本国籍を必要とするとして、外国人の採用に異を唱えた。そのため、1980年代中盤から大阪では形式上は採用試験の門戸は開いていても、実質的には外国籍者の採用はなかった。しかし1991年、1965年の日韓基本条約締結25年の再協議によって、「期限を付さない常勤講師」という職責での教員採用が再開され、彼は教員になることはできたのだが、教頭や校長といった「管理職」への道が閉ざされたままなのである。これほど意欲と実績のある人を十分に活用できない日本の社会は大変な損をしていることになる。いつまでこんなことが続くのだろうか。彼の努力が報われる日が一刻も早く訪れることを願うばかりである。


取材・文 高正子 contributor@jejujapan.com
 

     関連記事
· パンソリを熱唱する在日三世· 済州の変貌、そして在日外国人の変貌と変わらないこと
· 童話と伝統文化による共感で乗り越える 差別の壁(済州・大阪・日本)· 韓国舞の虜になった猪飼野の娘、韓日を股にかけて踊り行脚!
· 日本人に必要とされる人間になって、差別を乗り越えようとする熱血先生!
ⓒ 済州ウィークリー(http://www.jejujapan.com) 記事の無断転載を禁止します | 版.聲明  

楽しい音楽授業 撮影:高正子
Most Popular
Photo
「在日済州人、彼らのお蔭で今日の済州があるんですよ」
兪弘濬『済州文化の深淵を込めました』
〖WCC〗世界の環境リーダー、人類に問いかけたメッセージは?
〖WCCあれこれ〗済州の生命(いのち)の森、「コッチャワル」
[청소년보호정책]
Mail to editor@jejujapan.com   Tel. +82-64-724-7776   Fax.+82-64-724-7796   청소년보호정책 : 고은영
登録番号 : Jeju Da 01093   登録時間 : 2008年 11月20日   発行人 : 宋姃姬
Copyright © 2009 jejujapan.com 掲載の記事・写真・図表など無断転載を禁止します。すべての内容は韓国の著作権法により保護されています。